akihisa学習・ツーリングブログ

バイクのツーリング日記です。通勤中に読んだ読書のアウトプットをしたりもします。

恣意的自由・幸福の自由(自由の相互承認【上】35〜56)

いよいよ、終わってしまったお盆休み。

今日から出勤です。もう、バス出勤を忘れてしまい、ギリギリのバスになってしまっています…

 

そんな今日も、当然のようにバス内でインプットとアウトプットをします。(どんな時もやることは同じ)

 

さぁ、自由の相互承認もいよいよ『自由の三要素』全てが出揃いました。

前回紹介した、「因果としての自由」は、前回の記事を参照してください。

今回は残りの2つである「恣意的自由」と「幸福の自由」についてのアウトプットです。

※私が勝手に「自由の三要素」などと命名しているだけで苫野一徳先生が述べているわけではありません。

 

「恣意的自由」

これは、私も含めてほとんどの人が想像している自由に当てはまるものではないでしょうか。

「自由」と一言に言われると、何にも拘束されていない状態や、自分の思い通りに事が進む(わがまま放題)といったところでしょう。

「恣意的自由」とは、まさしくその事です。

しかし、「恣意的自由」は成し得ないものとして苫野一徳先生は主張されています。その理由としては、「恣意的自由」は「欲望」に通ずるものがあり、「欲望」は必ず相反するものであるからである。

例えば、「旅行を思う存分楽しみたい」という欲望があるとします。しかし、そのような欲望を叶えるためには資金というものが伴います。資金を得るためには大抵、労働を伴います。労働をすると、旅行をする時間は必然的に減少します。他にも、目標を達成したいけど、できる限り努力はしたくないなど、人間がもつ欲望は相反しているものが数多くある。

すなわち、「恣意的自由」を得ることは不可能であるという考え方だ。この考え方にはわたしも確かにそうだなと納得した。

 

つぎに、「幸福の自由」である。

余談になるが、今回2つの自由を一気に書くに至った理由としては、私が無知なあまり、どこで「恣意的自由」が終わったのかわからなかったからである。

「幸福の自由」とは、人間誰しもが持っている欲求に対するものである。人間は誰しもが幸せになりたい。や今、幸せであると言った欲求を持っていたり、欲求が満たされていたりする状態で生活をしている。このような、「欲求」の根底には必ず「自由」が潜伏していると考えられます。

人間の欲の根底には必ず「自由」がある。このことを知った今、3つ目の自由は「幸福の自由」と命名せずにどうすると自分でツッコミを入れました笑笑

 

私の拙いアウトプットでは、不十分に感じる方もいると思いますので是非一度読んでみてください。

楽天では見つからなかったので、Amazonでの紹介になります。