因果としての自由(自由の相互承認【上】21〜34)
一言に「自由」と言っても自由の種類には3種類あると苫野一徳先生は述べている。
その中の1つである『因果としての自由』について今日はアウトプットしていく。
他の2つはまた、次回以降。
そもそも、人間の自由には「関心」「欲望」「身体」の3つの自由がある。
「因果」の「自由」とは、読んでそのまま理由や条理があって「自由」が成されるという風に私は解釈する。
このような考え方を持てば人間はそもそも「自由」ではないのかもしれないという風に考えることもできる。
その理由としては、人間は誰しもが運命的に生まれてきて、生まれたからにはいずれは死んでいくという決まった路線がある。すなわち、自分の意思決定をすることができないという風に言い換えることができる。このような状況を「自由」と言えるだろうか。と考えると、人間は誰しも自由ではないのかもしれない。
もう少し説明すると、今、この文章を読んでいる方は、目の前に文章があり、その奥には携帯もしくはパソコンなどの電子機器があり、そのさらに奥には道路や家、海などが見えるかもしれないがその1つ1つが「本当に存在するものなのか」と立ち止まって考えてもらいたい。実は、この文章は幻かもしれないし、今読んでいる人は夢の中なのかもしれない。そのように、疑ってしまうと、「確信」ではなくなる。
「確信」という言葉は相互承認をする上でキーワードであると感じた。
お互いに自分の自由を「確信」して、互いの「確信した部分」の共通した部分が相互の「確信」ということになるのではないかと私は解釈した。
自由の相互承認 ?? 人間社会を「希望」に紡ぐ ??: (上)現状変革の哲学原理 (iCardbook)
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